※)これは”チラ裏”レビューです。あまり十分な推敲もしておらず、本来はチラシの裏にでも書いて捨てるレベルの駄文ですが、ここに書いて捨てさせていただいております。この先は期待値をぐっと下げて、寛容な気持ちでお読みください。ではどうぞ。
作品名:アン・シャーリー(アニメ 2025)(全24話)
評価:★3(★★★☆☆)
リンク:https://www.amazon.co.jp/dp/B0F2T58BGR
2025年4〜9月期のアニメ「アン・シャーリー」を第3話まで見てみた。家族で見ているのでもうちょっと見続けるが、3話まで見て良いところがひとつもないので個人的な気持ちでは3話切りだ。
たとえば、第2話「近所のリンド夫人から外見を侮辱され、癇癪をおこしてしまう。マリラに諭され、アンはリンド夫人に謝罪することにし、アン流の謝罪で許して貰う。」ここで謝罪するまでの逡巡も尺が足りなすぎて全然アンの気持ちが伝わってこないし、ノリノリで上っ面だけの謝罪をする感じは、完全に「解釈違い」だ。高畑勲版の「赤毛のアン」でのこのシーンは、アンが悔しさや屈辱の気持ちを押し殺して真剣に謝罪をするも、アンの言葉のそこかしこに本音が漏れてしまっているおかしさ、という感じだったと記憶するし、私はそういう解釈しかありえないと思っている。
第3話の、「マリラのブローチ紛失事件」も上記と全く同じ「解釈違い」だ(謝罪するまでの逡巡と、謝罪場面の悲壮感が足りない)。「マリラがブローチを必死で探した」演出として、部屋中がドロボーに荒らされたみたいにとっ散らかっているのを見せられた時も心底がっかりした。真剣に探している人は絶対にそんな探し方をしない。アニメの記号的表現だとしても、「赤毛のアン」には全く合わない。「ドラえもん」でのび太ママが部屋中ひっくり返しながら物を探すのはまあアリだが、マリラがそんな探し方をするイメージはまったく浮かばない。
子供は大人と比べて知識も経験も少なく、知らないことだらけだ。それゆえ、まわりの些細なことにも不安を感じながら生きているものだ。現代日本の愛情ある両親の元に生まれた子供でもそうなのだから、孤児院で育ち、やっとのことで自分を迎え入れてくれる人が見つかったアンの嬉しい気持ちはいかほどか、そして同時に、この人に愛想を尽かされて追い出されるかもしれない不安がいかほどか。まずこの基本的な境遇に対する同情がなければならないが、本作のスタッフはこれを理解していないか、または理解できているとしてもそれを表現する力や熱意が全くない。ただ単にあったあらすじをアニメ化した製品を作っているだけだ。
「赤毛のアン」のアニメ化は1979年に高畑勲が演出(監督)、宮崎駿が作画スタッフを務めたものが有名だが、それと比べると本作に魂が込もっていないことは歴然だ。正直言って、私は高畑勲版の第1話でアンが養子として望まれていないことを知った場面で涙したが、本作ではストーリーの上っ面をなぞるだけの表現力の無さに毎回ただ呆れるだけだ。
ひとつ本作に対して同情すべき点は、昔と比べて視聴者がゆっくりとアニメを楽しむだけの余裕を持ち合わせていないことだ。高畑勲版の「赤毛のアン」を今放送したところで、あのゆっくりしたペースに視聴者が我慢してくれるとも思えない。高畑版は全50話、本作は全24話だ。
でも、それにしたってもう少しどうにかならなかったのか。やる気がないなら作らないでほしい。タイトルが「赤毛のアン」としなかったのも、多くの人に見てもらう気がないのではないかと思ってしまう。