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空気を読まないサラリーマンをやってます。1980生まれ男です。既婚。2011年生まれ息子、2013年生まれ娘あり。

★5(★★★★★) 中共の正体/落合道夫 (本 2020) レビュー

※)これは”チラ裏”レビューです。あまり十分な推敲もしておらず、本来はチラシの裏にでも書いて捨てるレベルの駄文ですが、ここに書いて捨てさせていただいております。この先は期待値をぐっと下げて、寛容な気持ちでお読みください。ではどうぞ。

作品名:日本と世界を騙しに騙した中共の正体 ─支那事変から武漢肺炎まで/落合道夫(本 2020)
評価:★5(★★★★★)
リンク:https://www.amazon.co.jp/dp/B08CR34Q8F

落合道夫先生の他の著書やYouTube動画を見てファンになったので本作も買って読んでみた。

落合先生の他の本と同様、この日本国そして日本民族がこの世界の中で生き残っていくために必要な知識や考え方が満載で非常に勉強になった。日本が中国などの覇権主義国家による侵略から防衛するためには、これらを自分で実践するだけでなく周りにも広めて、日本人全体が真っ当な歴史観、国家観、国防意識を持たなければならないのだが、99%の日本人が義務教育で自虐史観で洗脳されてしまっているので、この当たり前のことが本当に難しく、気が遠くなる。だが、諦めずに自分が日本のためにできることをしっかりやっていきたいと改めて思った。

本書を読んで特に記憶しておきたいことを抜き出し、まとめてみた。

■(p.13)【第一章 新しい 歴史観

日中戦争という表記の罠】────支那事変では日本は中国全体と戦ったわけではない。それどころか汪兆銘の南京政権を支援して圧倒的な領土国民を支配し、蒋介石の国民党軍閥と戦ったから、「日本・蒋介石戦争」というのが正確だ。中共はこの間、毛沢東の戦略に従いゲリラ戦をするだけで、意図的に戦わなかった。したがってこの戦争の歴史的名称は支那事変、内容的には日・蒋戦争が正しい。日中戦争という表記のねらいは、支那事変の実態が外国の日米ソを支援国にした現地の汪兆銘蒋介石毛沢東の三大勢力の対立状態であったのを、二国間の対立状態であったように偽装するためである。

■(p.25)【第二章 戦前の日本の大陸政策】

日本人に満州国について知っておいてもらいたいのは、満州国が大陸で初めて法治を確立した近代国家であり、日本の統治が住民や外国人から喜ばれたことである。

満州事変】────「(満州における張学良軍閥の)帝国臣民に対する暴行迫害は、満鉄付属地並びに港湾にも波及し、これがため国民学校児童の如きは、校舎への往復さえ、軍隊の保護を要し、軍隊無き地域では廃校のやむなきに陥ったのである。かくて在留邦人も逐次帰国し人口は120万から100万に減じた」そこで1931年、石原莞爾等が主導して関東軍(在満日本軍)1万2000は張学良の奉天の兵営を榴弾砲で攻撃し、張学良軍30万を中国本土に駆逐した。これが満洲事変である。

【中国人への対応方針】「中国人は力に従う民族である。歴史上清朝もロシアも強力な武力で押さえ込んだ。それなのに日本は寛大な政策をとった。このため弱いと見なされ、中国人を増長させ紛争を起こさせることになった。中国人には対等という観念は希薄である。だから日本人が反省したり謝罪すると、事態は一層こじれることになる。これが戦前から現代に至る日本外交の失敗の原因である」

【日本の開発と満洲住民の歓迎】────1930年代の日本経済は、米国発の大恐慌で大不況に陥ったので政府は満洲開発に力を注ぎ、新国家建設のために岸信介(戦後、首相)のような優秀な官僚を送り、法治制度を確立し社会を改革し重工業を興した。欧米の投資家も満洲の安定を見て歓迎した。黄文雄氏によると、戦後日本の満洲国は中共から繰り返し非難されるが、張学良が追放されると満洲の民衆は喝采した。というのは張父子の軍閥支配は満洲を荒らし民衆の金を奪って軍費に蕩尽し、破産する者が三割に及ぶという悪政ぶりだったからだ。日本の支配により、満洲の住民は張作霖軍閥の野蛮な独裁支配を脱し、思いがけない日本による近代文明の恩恵に浴することができたのである。満洲は急速に大発展し、日本人以外に中国人までが安全と仕事を求めて長城を越えて本土から毎年100万人以上流入してくるようになった。戦後、中共は日本の満洲国を盛んに非難するが、それは現在の独裁体制よりもはるかに優れた法治国家であったからである。騙されてはならない。

■(p.34)【第三章 一九三〇年代の中国】

国民党は当初、清朝に対して中国人の独立を求めた孫文の指導する民族主義集団で、上海に本部を置いていた。しかし孫文が1925年に「革命未だならず」という言葉を残し北京で病死すると、蒋介石が後継者となった。

国共内戦の開始】────蒋介石は1927年から1936年12月の西安事件まで共産軍を攻撃し、戦争を優勢に進めていた。このため毛沢東共産党軍はいくつかに分かれ西北部に向かって逃亡した。共産軍は逃亡先で追跡する国民党軍や各地の軍閥と戦ったので、この大逃避行を「長征」と称した。

■(p.39)【第四章 戦前の中国共産党

1927年、共産党広州市を襲撃した。この日、約2000人の共産党部隊が治安局を占領すると監獄から囚人を釈放し、腕に赤い布をつけさせて略奪や放火を行わせた。この赤布は略奪、殺人の免罪符となったので広州市内の商店からあらゆる物が略奪され、病院、旅館、料理屋などが焼き打ちされた。抵抗する人間は老若男女かまわずその場で射殺され、市内至る所で略奪と惨殺が行われた。夕方、共産党は公園で大会を開き広州ソビエト政府の樹立を宣言した。しかし3日後、国民党軍が鎮圧に出動すると共産軍は市内から逃走した。この結果、広州の町は火事で廃墟となり犠牲者は1万5000人に上った。

【殺人略奪行為】────共産党は金がないので地域を占領すると往来を封鎖し、農民から金、食糧、その他必要な物資を略奪した。そして土地のやくざや犯罪者を使って地主や有力者を逮捕し虐殺したが、その殺し方は絞首刑や銃殺のほか、人民裁判方式といって大衆からよく見えるように犠牲者を高い壇の上にあげ、農民に強制して残酷に撲殺させた。そして家族もなぶり殺しにしたのである。まさに三光虐殺作戦である。こうした蛮行には政治的な目的があり、農村の人間関係を破壊し旧に戻させないためであった。実に悪辣であった。

蒋介石の第五次反共攻撃】────当時の国民党、蒋介石の基本方針は「先安内、後攘外」といい、国内統一を最優先し、そのあと対外国際問題に当たるという常識的なものであった。共産党蒋介石の攻撃に抵抗していたが、第五次の攻撃では国民党軍は軍事顧問のドイツのフォルケン・ハウゼン将軍の献策により地域に要塞を作り、共産軍の往来を厳重に封鎖した。このため各地の共産軍は補給が出来なくなり音を上げ、過疎地の西北方面に脱出を始めた。瑞金地域を支配していた毛沢東共産党中央の主力部隊とともに西方へ向かって脱出した。

【長征】────この移動では共産軍は移動先の既存の勢力や追撃する国民党軍と戦いながら進んだので、長征と称した。この期間は1934年10月から1935年11月頃までの約1年間で、通過した距離は1万2000キロに達する。毛沢東らは台湾対岸の奥地の瑞金地域から西進し、桂林の北部を通過し、雲南にぶつかると北上し大雪山脈を越えて、青海省南部からさらに陝西省甘粛省寧夏省経由で最終的に陝西省西安北方の延安へ到達した。

【長征の実態】────共産党は国民党の攻撃から逃げながらも資金と食糧を手に入れるため侵入先で大きな家を襲い、食糧、財産や金銭を強奪し、殺人、放火、人質を繰り返した。そして地主の土地を分けるといって貧農を騙して破壊や殺人の手先に使い、兵士や運搬の人夫として徴用した。

■(p.56)【第六章 西安事件、対日挑発、奇襲攻撃】

当時の日本は1932年に建国した満洲国の開発に力を注いでおり、1935年には日満経済共同委員会を設置し、満洲国の発展に努めていた。従って日本には支那本土で大戦争をする計画など全くなかったのである。

西安事件の発生】────1936年12月初旬、蒋介石西安北方の共産軍の根拠地延安を最終的に攻撃するために西安に赴き、部下の将軍の張学良と楊虎城に延安総攻撃の作戦命令を与えた。しかし蒋介石が会議を終えて南京に戻る12日の早朝、張学良と楊虎城が反乱を起こし、反乱軍は西安近郊の華清池にある蒋介石の宿舎を包囲した。そして反乱軍は蒋介石の護衛隊を射殺すると、付近を捜索し、宿舎の裏山の洞窟に隠れていた蒋介石を見つけて捕らえた。彼らは生け捕りを厳命されていたので危害を加えなかった。

蒋介石スターリン毛沢東の軍門に降り、過去9年にわたり膨大な人命と戦費を費やして進めてきた中国統一を放棄し、自殺行為となる対日攻撃に方向を転換した。こうして蒋介石支那事変という極東の大災厄をひき起こすパンドラの箱を開けてしまったのである。

ソ連の援蒋規模】────戦時中の援蒋は米英が有名だが、その前にソ連が密かに三億ドルの大規模軍事借款を蒋介石に供与していた。ソ連の援助がなければ蒋介石は対日戦を始めることは出来なかった。

ソ連赤軍の援蒋内容】────中国に派遣されたソ連赤軍顧問団は将軍クラスからパイロット、航空整備員まで総計4000名に上った。将軍の中には後のスターリングラード防衛戦の名将チュイコフまで含まれている。そして戦闘機、爆撃機が総計1000機も到着し、蘭州にはソ連人が指導する飛行学校まで作られた。

蒋介石の対日戦争準備状況】────蒋介石西安事件後、上海租界の周辺のウースンの水郷地帯に対日戦の主戦場にすべく、日本人が想像できないほど大規模なトーチカ陣地の構築を開始した。

【挑発の狙い】────蒋介石が1937年上半期に戦争準備を終えると、スターリンは対日攻撃を始動させた。最初は心理戦であり、目的は日本人を激昂させて冷静な判断力を奪うことであった。

こうして1937年の7月から8月上旬にかけて執拗な対日攻撃が始まった。

【盧溝橋事件の勃発】────1937年7月8日に盧溝橋事件が起きた。PKOの日本駐屯軍の小部隊が盧溝橋で平常通り夜間演習をしていたところ、対岸から実弾攻撃を受けた事件である。そこで日本軍は自衛のため反撃し対岸の蒋介石配下の宋哲元軍閥に抗議したところ、一応停戦に同意したが挑発攻撃を止めなかった。

蒋介石は7月17日の廬山会議で、加害者なのに被害者を偽装して全国に対日攻撃を宣言した。これは宣戦布告と同じである。

そしてその後7月25日には北京近郊の廊坊駅でPKOの日本軍が張自忠将軍の許可を得て通信線の修理に向かったところ、蒋介石軍が自動火器、迫撃砲で攻撃して来た。そこで日本軍は翌朝、戦闘機を出動させ敵陣地を爆撃して、工兵隊を救出した。

そして翌26日には日本軍PKOが北京の広安門をトラックで通過中、蒋介石軍が突然城門を閉め、機関銃攻撃をしてきた。中国側の対日開戦姿勢は明確であった。

そして翌27日の夜、天津駅一帯が襲われるのである。

通州大虐殺事件】────7月29日未明、北京近郊の通州の街で3000人の蒋介石軍の大部隊が日本軍の特務(情報)機関と一般邦人を襲い、約300名を虐殺した。特務機関員は最後まで勇敢に抵抗したが多勢に無勢で全滅した。これを知った日本軍はすぐに救援軍を送り、蒋介石軍は逃亡した。しかし邦人の被害は見るに堪えないほどのものであり、日本人は激昂した。しかしこれこそが日本人を挑発するための計画的な虐殺であり、冷酷無比のスターリンの狙い通りの展開だったのであろう。

【上海奇襲攻撃と日本人の防衛戦】────7月28日、日本政府は中国側の急激な排日行為の高まりを見て全邦人居留民に避難命令を出した。これにより漢口、南京など長江沿岸都市から邦人民間人が続々と上海租界に避難してきた。彼らは長崎へ帰国して行ったが、8月上旬にはまだ2万人位の邦人が逃げ遅れて上海租界に残留していた。これに対して1937年8月13日、約5万の国民党軍が日本人への奇襲攻撃を開始した。上海市内では潜伏していたゲリラが一斉蜂起し、租界の北方からは日本人が多く住んでいた虹口地区に攻撃をしかけてきた。彼らは日本人を黄埔江に追い落とし、通州事件のように虐殺しようとしたのである。なお戦後、日本軍がこの時、蒋介石軍を攻撃したとか、両軍が衝突したとかいわれているが、全部虚偽であり、蒋介石軍の一方的で計画的な奇襲であったことを知っておきたい。

【上海空襲】────翌8月14日、蒋介石のマーチン爆撃機五機が周辺飛行場から上海租界に飛来し、黄埔江に停泊していた巡洋艦『出雲』を爆撃した。そこで出雲が高角砲で反撃すると一機が被弾し遁走する途中租界上空から二百五十キロ爆弾を三発、投弾した。この一つは大世界という繁華街の路上で爆発し、死者負傷者1000名を越える大惨事となった。第二弾はキャセイホテルの玄関前で炸裂したため、中国人多数と外国人(後の日本大使、ライシャワー博士の令兄を含む)らが爆死した。そして第三弾がパレスホテルを直撃した。すると蒋介石は早速、日本軍機の爆撃と非難したが、爆弾がイタリア製であることが分かりすぐに国際社会に嘘がばれたという。

■(p.72)【第七章 日本政府の選択と出兵】

日本政府内部は中国情勢が急迫すると基本方針の選択を迫られた。すなわち中国からの即時全面撤退か反撃してから講和を求める出兵である。参謀本部作戦部長の石原莞爾少将は全面撤退を主張した。

近衛文麿首相は対応方針に迷ったが、現地情勢の急迫からついに亡国に到る運命の出兵に踏み切ってしまった。日本政府側に上海租界への派兵は日本の自衛戦争ではなく、中国人の中国の戦争に巻き込まれることであり、蒋介石と戦うことが日本の敵である共産主義ソ連中共を利することになるという大局的な視点がなかったことは実に惜しまれる。

上海の戦闘で名古屋第三師団の壊滅を含む戦死傷者4万2千名という予想外の大被害を見ると衝撃を受けてしまった。そして、せっかく上海戦が終わったのに、制令線(進出限界)を突破して首都南京へ進軍した。そしてあり得ない蒋介石の講和を求めてさらに奥地に軍を進めていったのである。

■(p.80)【第八章 戦闘】

1937年8月下旬、日本政府は本土から、逃げ遅れた上海の居留民救援のため陸軍部隊を送った。しかし、上海郊外のクリーク地帯に上陸した日本軍を待っていたのは予想外の強敵で、名古屋第三師団は第一次大戦の激戦で有名なベルダン戦に匹敵する猛烈な弾幕攻撃を受け二週間で壊滅した。この大損害は戦時下の日本の情報統制と戦後の日本加害者史観で日本人には隠されてきたので知っておきたい。

南京攻略の日本の戦略目的はあくまでも講和の促進であった。当時の世界では首都の占領は戦争の終結を意味したからである。しかし蒋介石は降伏しなかった。

陥落当時、日本軍が南京占領後に大量の市民を殺したというデマが西側に流され、現在も日本の歴史教科書などで流されている。しかしこれは以下の基本的な理由で科学的に否定される。
①物証が皆無である。アウシュビッツのような巨大な収容所の遺跡がない。
②南京の戦争避難市民がすぐに市内に戻った。
③占領前の市民の人口は国際機関の調査によると二十万に過ぎなかった。
④日記や現地人の証言は偽造可能であるから証拠にならない。
⑤いわゆる虐殺写真があるが、東中野修道教授の調査によると全部偽物であった。それも当然である。事件自体がなかったからである。

■(p.90)【第九章 日本の講和努力】

支那事変の最大の特徴は、日本が紛争の当初から終始、講和工作を模索したことである。日本の戦争目的は当面の逃げ遅れた居留民救出であったから、敵を追い払うとすぐに講和の努力を始めた。日本は蒋介石との本格的な戦争は望んでいなかったので何の戦争準備もしていなかった。戦後の反日歴史ではこの事実が隠蔽されている。一方、蒋介石スターリンから戦争継続を命じられていたから、何の対案も出さず、講和努力はしなかった。

日本は米国に講和の調停を依頼した。するとルーズベルトは1937年10月、日本の要請を拒否し、逆に激しく日本を非難した。これは満洲を独占支配する日本を敵視していたので、日露戦争当時と違い支那事変を歓迎していたのである。そこで日本はヒトラーに仲介を頼んだ。それが1937年11月の中国駐在のトラウトマン大使工作である。

国民党の最高幹部は日本の講和条件が示されると全員、対日講和に賛成した。日本の提案はよほどの好条件だったのだろう。しかし黒幕のスターリンの意見により蒋介石は講和を拒否した。

■(p.93)【第十章 汪兆銘工作の成功】

「日本軍は1938年11月には蒋介石軍をほぼ打倒したという判断で大規模な作戦を終了した。16ヶ月間で占領地は支那本土の半分、人口の半分(2億人)、労働者の9割、工業生産額は94%に達した。これに対して重慶側には1000万人もの難民が流入し、戦争継続は無理になっていた。しかし蒋介石はかたくなに講和に反対した。このため汪兆銘が動き出したのである」黄文雄氏は、汪兆銘工作が日本側の都合だけで行われたのではないことを指摘しているが、これは重要だ。

日本軍は駐屯する時は町や村の郊外に駐屯し、治安維持を除き住民の伝統的社会生活に関与しなかった。このため住民は治安が改善され歓迎したのである。

日本軍は戦地で中国の近代化を行っていた。これは重要な史実だが戦後隠されてきたから知っておきたい。日本は華北経済圏の開発と管理のために莫大な投資をして国策会社を作った。それは交通、鉄道、水運、自動車輸送網、港湾建設などで中国の近代国家づくりであった。電気通信では1938年に華北電電が設立され、石炭事業も復興し1942年には記録的な生産量を上げた。  このほか鉄鋼、機械工業、自動車製造、兵器製造など広範な近代的工場が驚く速度で新設された。日本人が現地人に教えたものは、大規模経営、機械化、そして厳正な経理会計などが挙げられる。

華北では日本は食糧自給のため農業の増産計画を指導し、事業は順調に発展した。また、綿花の栽培と増産にも力を入れた。鉄道の復旧も行い、華中から華北への食糧供給を再開させた。華中では食糧生産地の上海地域が戦場になったので大打撃を受けていたが、1940年には戦前の水準に回復してきた。ただ、反日勢力のテロ妨害などで関係者は苦労した。日本は長期的な視野に立ち中国の農業を近代化するため、農協と産業組合を併せた組織を通して、無秩序の農村を組織化することを計画した。これはその後の戦乱で成果を挙げることはできなかったが、台湾、朝鮮、満洲では成果を上げた。

七三一部隊反日宣伝でよく使われるペスト患者の写真は1905年にロシア統治下のハルピンで発生したもので、元の絵葉書は説明文もロシア語であり、日本は全く関係がない。なお、支那事変では日本軍駐屯地でコレラが流行し多数の日本兵が死亡した。押収した国民党軍の文書に、井戸水を飲むなという注意書きがあったので、日本軍は国民党軍の仕業と推定したという。ソ連はBC兵器(生物化学兵器)の大国であったから、日本軍に使った可能性がある。  

■(p.102)【第十一章 各国の支那事変戦略】

アメリカの支那事変戦略】アメリカは満州を手にいれる野望を持っていたため、1937年、日本の支那事変の仲介要請を拒否し、1938年からは逆に総額15億ドルに上る援蒋を始め、1941年からは航空義勇軍まで派遣して介入した(フライング・タイガー作戦)。これは日米開戦直前の明らかな宣戦布告のない米国の不当な戦闘行為であった。しかし結果は思うように行かなかった。それは予想外の日本軍の強さ、蒋介石厭戦と政権の腐敗、そしてさらに独ソ戦が始まるとスターリンの術策にはまり、対ソ115億ドルという天文学的な軍事援助を供与した上で、最後にヤルタ協定の違約というどんでん返しを食らって満洲を奪われ、戦後中国大陸から追い出されるのである。
【日米開戦事情】ルーズベルトは1937年10月、支那事変の講和仲介を拒否するとその後も対日敵視政策を続け、支那事変の収拾に苦しむ日本を圧迫した。滅ぼすつもりである。さらに1941年には在外資産を凍結没収し、鉄くずと石油の輸出を禁止した。そして11月にはハル・ノート条項を要求した。これは裏でスターリンが原案を作った無理難題で、日本を追い詰め挑発し日米戦争を必至とするのが狙いだった。

■(p.112) 【第十二章 日本の敗戦】

敗戦が生み出した日本の最大の問題は海外からの邦人の帰国である。中国大陸には軍人を含めて約300万人の日本人がいた。これらの人々が内戦の始まった混乱の中国から逃げ帰ることになったのである。日本人の帰国が実現したのは、米国のウェデマイヤー将軍が米軍の輸送船を手配してくれたおかげである。蒋介石は内戦対応に追われていたから何もできなかった。  もし日本人が集結地にそのまま放置されていれば、300万の引き揚げ者は国共内戦の無警察状態に巻き込まれて全滅していただろう。また、もし中共軍の捕虜になっていれば人質として長く対日交渉の道具に使われていただろう。

■(p.121)【第十三章 満洲の悲劇と邦人シベリヤ抑留】

戦後日本では、1945年の満洲へのソ連軍の侵略と、現地人の中国人と朝鮮人の暴徒の蜂起による甚大な被害が隠されてきた。邦人民間人の死者は24万人に上る。

日本政府の命令により降伏した日本軍人60万人はソ連軍に捕らえられシベリヤに輸送され、長期間奴隷として酷使され7万人も殺された。

■(p.129)【第十四章 日本の戦後】

日本は敗戦したが、この大戦により独立を果たしたアジア各国は日本に好意的である。インド独立工作の責任者F機関の藤原岩市少佐は戦後、英軍に逮捕され、英国のインド支配の拠点レッドフォート(赤い城)で裁判を受けた。少佐は死刑を覚悟したが、英国に対するインド側の強い圧力で釈放された。インド側の弁護士デサイ博士は藤原少佐を元気づけて「どんな国の歴史にも勝敗はある。日本は必ず復興する。インドは必ず支援する」と力強く慰めた。現在もインドは地政学的に日本と共通の敵を持つ、間違いのない友好国である。

■(p.132)【第十五章 支那事変のまとめ】

膨大な戦死者を思うと、ただただ勿体ない、の一言である。日本はスターリンの避雷針戦略により国土防衛とはまったく関係のない他国の内戦に誘い込まれ膨大な人命、物、金を失った。実に惜しまれる。支那事変の日本人の戦死者は45万人、蒋介石側の戦死者は国民党の調査によると135万人に上るという。中共が宣伝する中国人の死者が数千万というのは意味不明である。ソ連独ソ戦の犠牲者を2500万といっているが根拠はない。なお、中共は戦後の国民粛清で8000万人も殺しているという。

■(p.135)【第十六章 第二次国共内戦中共勝利の謎】

中共勝利の原因】
①1936年12月の西安事件蒋介石反日に転向させた。
②1937年8月の支那事変で日本軍の奥地誘導に成功した。
ソ連と米国がそれぞれの思惑で蒋介石に莫大な軍事援助を与えた。
④戦後、米国が中国大陸から撤退した。

中共の時代区分】
①(1949〜59)毛沢東独裁から毛の失権までを毛沢東第一革命期
(1959〜66年は毛沢東劉少奇の二頭統治時代)
②(1966〜76)毛沢東文革による奪権と死亡までを毛沢東第二革命期
③(1976〜2013)鄧小平の資本主義革命の第三期
④(2013〜現在)習近平独裁の第四期

■(p.155)【第十八章 国民総監視体制】

【国民粛清】────毛沢東は整風と称して、党員、小作農民、商工業者、文化人の吊し上げ運動を繰り返し行い、犠牲者の財産を奪い大量に処刑した。これらは全く無法行為であったが、国民には参政権がないので抵抗する術もなく殺されていった。毛沢東時代の国民の最終的な犠牲者の総数は八千万人に上るという。スターリンの四千万を遙かに上回る想像を絶する規模の死者である。

■(p.165)【第二十章 大躍進政策の起こした大飢餓】

(大躍進政策は、1959〜61年の3年間で)結果的に四千万という未曾有の餓死者を出し、毛沢東国家主席引責辞任に追い込まれた大失政である。

■(p.173)【第二十一章 毛沢東第二革命期(1966~76年)】

1966年、文化大革命。「共産党指導部だけでなく、中国のあらゆる歴史的な文物が否定され破壊され、軍隊同士の抗争まで発生し、鄧小平によると死者は2000万人に上ったという。」

■(p.201)【第二十四章 日本の対中対応】

中共日中友好といいながら攻撃してくる。これは兵法三十六計の「笑裡蔵刀(顔で笑って手にナイフ)」の裏切り戦法であり、油断していた日本は大きな被害を受けているので、以下の4つを心して警戒する。

①日本人は支那事変に贖罪感を持っているが本当は加害者ではなく被害者。戦争の正しい因果関係を知り贖罪感の弱気から脱する。

中共の正体は自由、民主主義のない野蛮で遅れた国家であり、警戒が不可欠である。

③民族性の違いに気づく。戦後の中共人と戦前の自由中国人はまったく異質の人間。特に幹部は国民の迫害を常習としているので傲慢、残酷であり、西側の自由な国民のような人間性はない。

④国防回復が最優先。日本人は対中問題で取り組むべきなのはまず国防であることに気づいていない。米国も当てにならない。自衛は裏切らない。