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空気を読まないサラリーマンをやってます。1980生まれ男です。既婚。2011年生まれ息子、2013年生まれ娘あり。

★5(★★★★★) 杉原美談の偽史と日本のユダヤ人救出/落合道夫 (本 2016) レビュー

※)これは”チラ裏”レビューです。あまり十分な推敲もしておらず、本来はチラシの裏にでも書いて捨てるレベルの駄文ですが、ここに書いて捨てさせていただいております。この先は期待値をぐっと下げて、寛容な気持ちでお読みください。ではどうぞ。

作品名:杉原美談の偽史と日本のユダヤ人救出/落合道夫 (本 2016)
評価:★5(★★★★★)
リンク:https://www.amazon.co.jp/dp/B01CV0BR80

YouTubeで講義動画を見てファンになった落合道夫先生の「杉原美談の偽史と日本のユダヤ人救出」を読んだ。

本書を読むにあたり、一般的な「杉原千畝」像を知るために「小学館 学習まんが人物館 杉原千畝〜六千人の命を救った外交官」をまず読んでみた。すると確かにこの話はどこか胡散臭い。関東軍の軍人が乱暴な悪人として描かれているのも鼻につくし、逆に杉原は最初から最後まで完璧な善人として描かれている笑。ユダヤ人たちがリトアニアを脱出してからどういうルートで最終的にどこに亡命したのかという肝心なところは一切触れられていないくせに「二千通のビザを書いて六千人を救った」という数字だけはしっかりアピールしている。極め付けは2000年に当時外務大臣だった、偉大なる反日媚中議員・河野洋平杉原千畝を表彰し、「外務省が杉原に対しうそのうわさが流れていたことなどいろいろご無礼があったこと」をお詫び。う〜ん、胡散臭い!

本書に書かれたポイントを以下、まとめてみた。

・杉原は「日本の外務省の方針に反対してビザ給付した。また戦後そのために外務省に処罰され解雇された」と、日本政府を非難し自分を上げるアピールをしているが、これは事実と異なる。第一に、彼は外務省の許可を得てユダヤポーランド人へのビザ発行を行っておりその後罰せられるどころか出世し叙勲までしており何のリスクも負っていない。第二に、戦後の退職は米占領軍GHQの指令による外務省の七百名に上る退職者の一人に過ぎず、正規の退職金も年金ももらっているから、退職は処罰ではない。

・杉原のストーリーではまるで杉原一人がユダヤ人救出をしたように宣伝されているが、実際は当時ユダヤ人にビザを給付した日本の領事はベルリンやウィーンにもいたし、単にビザ発行事務をしたこれらの領事館員よりも樋口季一郎陸軍少将、安江仙弘大陸軍大佐、犬塚惟重海軍大佐の三人の方が重要な役割を演じ、ユダヤ人協会から感謝されている。これらの3人は1941年にユダヤ人の恩人名鑑(ゴールデンブック)に正式に記録されたが、杉原は記録されていない。

・「満洲国とユダヤ系国民」1917年のロシア革命では、共産党の迫害を受けたロシア人が満洲に大量に脱出してきた。これを白系ロシア人という。その中にユダヤ人が5千人近くいた。彼等はハルピンにユダヤ教会をつくり、極東ユダヤ人協会を組織して助け合って暮らしていた。そして1931年満州国が出来ると関東軍(日本軍)の庇護下に入ったので当然親日的であった。

・「極東ユダヤ人大会の実施」1937年、第一回極東ユダヤ人大会が満洲ハルビンで行われ、日本側から樋口少将、安江大佐、犬塚大佐が出席している。この時、樋口少将は私服で出席しユダヤ人を残忍に迫害するナチスを批判したのでユダヤ人に大歓迎された。これを知ったナチスの外相リッペントロップが東條英機参謀長に抗議したが東條英機は日本はドイツの属国ではないと一蹴したという話が残っている。

・「当時の上海」上海は清朝時代の1842年に南京条約で外人居留区に指定された。清朝は外国人の活動を一定地域内に閉じ込めたのである。しかし上海は米英仏の貿易や投資で繁栄した。そして1912年、清朝が滅亡すると支那本土は軍閥抗争の時代に入り治安は崩壊した。しかし租界は外国勢力が治安維持をしていたので、浙江財閥など金持ちの支那人が安全を求めて租界に入り込んだ。また労働者としての支那人流入したので上海は人口300〜500万、外国人7万5千という東洋有数の大国際都市になっていた。上海の租界はフランス管理のフランス租界、英米管理の共同租界に分かれており、日本人は共同租界の虹口地区に多く住んでいた。

・日本がユダヤ人救出事業を2回行った。1回目は1938〜9年で、ソ連をシベリヤ鉄道で横断し、満州→大連港→日本→上海というルートだった。2回目は1940年で、リトアニアで杉原がビザを1500通給付し、満州を通過せず、ウラジオストック港→敦賀→神戸→上海というルートだった。日本軍の調査で、上海のユダヤ人の人口が第一次救出後が1万9000人、終戦時は2万5000人だったため、杉原のストーリーの「6000人救出」はこの差分をそのまま杉原ビザによるものと仮定したと思われる。

・第1回目のユダヤ人救出事業では、ベルリンとウィーンの日本領事館が通過ビザを1477通も給付した。また、ソ連官兵により強制的に途中下車させられたユダヤ人難民を、樋口少将、安江大佐が満洲国の通過許可を上申し、東條英機が許可した。このとき満鉄総裁の松岡洋右は特別列車を用意してユダヤ人を救出した。

・1939年、上海ユダヤ人の人口が増え必要経費を賄えなくなったため、ユダヤ人協会がこれ以上の難民受け入れの停止を要請し、日本はこれを受け入れた。これにより、日本の外交公館にユダヤ難民へのビザ発給を停止したものと思われる。

・第2回目のユダヤ人救出事業は1940年7月、欧州ユダヤ人協会のルビー・アブラハムが上海の犬塚大佐を訪ね、リトアニアからポーランドユダヤ人をシベリア鉄道経由で日本に送り、その後米国に逃す事を要請した。犬塚大佐は総領事に連絡し、その結果外務省はビザ給付を黙認許可することにした。したがって、杉原夫人が言う「杉原が外務省の指示に違反してビザを発行した」という事実はない。

・杉原はロシアとの関係が深く、ソ連スパイであった可能性がある。満洲国外交部の通訳時代、彼はセルゲイ・パブロビッチというロシア名を持ち、ロシア正教に帰依し、クラウディアというロシア人女性と11年間結婚していたが1935年に離婚、杉原夫人は2番目の妻。戦争末期、1944年杉原は家族とともにブルガリアソ連軍の捕虜となった。しかし他の日本人捕虜が奴隷化されていたにもかかわらず異例の厚遇を受け2年で帰国した。1947年に外務省を退職後、1960〜75年までモスクワで3つの日本商社の駐在所長として過ごした。これはソ連KGBの監視下に置かれていた可能性がある。