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空気を読まないサラリーマンをやってます。1980生まれ男です。既婚。2011年生まれ息子、2013年生まれ娘あり。

手塚治虫「火の鳥」って本当に面白いですか?

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手塚治虫火の鳥」コンビニコミック版全巻

手塚治虫の「火の鳥」全12編を一気に読んで全作品のレビューを書きました。
★1〜★5で評価した結果はこうなりました。

★5:(該当なし)
★4:【4.鳳凰編】【3.太陽編】
★3:【2.ヤマト編】【7.異形編】【12.未来編】【10.宇宙編】
★2:【5.羽衣編】【1.黎明編】【6.乱世編】
★1:【11.復活編】【8.生命編】【9.望郷編】
(※)各「編」のナンバリングは執筆順ではなく年代順を採用しています。

一般に高く評価されている「火の鳥」ですが、バイアスなしで個々の作品として評価した場合、本当にそこまで高く評価されるべき作品でしょうか?手塚治虫が漫画界のレジェンドである事、また「火の鳥」が生命というテーマを扱っている事、これらが合わさってこの作品が神聖視され、「この作品は素晴らしいはずだ」という強いバイアスが世の中に醸成されているように感じます。

私はこのレビューを書くにあたり「火の鳥」全12編を2回以上通読しましたが、忖度抜きで言うとはっきり言って「火の鳥」はつまらないです。

純粋に作品として「読むに値する」水準に達していたのは【4.鳳凰編】【3.太陽編】で、★4をつけました。
漫画の神・手塚治虫の代表作「火の鳥」を教養として知っておくことの価値を付加してやっと「読んでもいいかな」と思えるのが【2.ヤマト編】【7.異形編】【12.未来編】【10.宇宙編】で、★3をつけました。
これら以外の6編は★2と★1です。

火の鳥」という作品では「生命とは何か」というテーマで大上段の俯瞰視点から人間を見下ろすようなシーンがよく出てきます。
【9.望郷編】や【12.未来編】で「どうしていつも人類は間違ってしまうのでしょう」というシーン。
【4.鳳凰編】や【6.乱世編】で説かれる輪廻転生の話。
【12.未来編】で説かれるガイア理論(人間も地球という大きな生命体の一部という見方)の話。
しかしどれも、「今、ここ」を生きる人には関係ありません。ひとりの人間には人類全体の性質をどうこうすることはできないし、輪廻転生やガイア理論があろうがなかろうが今の自分の人生を一生懸命生きるだけ。そして人の心を動かすのはいつも「今、ここ」を生きる一人称の物語です。
つまり「火の鳥」という作品のテーマ自体が、心を動かす物語に水を差すような性質を持っていると言えます。もっと言えば、生命讃歌を表現しようとするあまり人間という存在のもっとも尊い部分を見失ってしまっています。

また、「火の鳥」はプロット・設定・人物像が現代の漫画のように緻密に練られていません。「火の鳥」単行本化の際や単行本の改版の際に多量の加筆・修正が入っているのはプロットが十分に練られていない事の証左ですし、人物像の作り込みは、現代の良くできた漫画が緻密に描かれたデッサンとするなら「火の鳥」は棒人間の絵くらいの差があります。

なお、ここでは全12編を以下のように年代順にナンバリングしています。
【1.黎明編】3世紀頃
【2.ヤマト編】4世紀頃
【3.太陽編】西暦663年〜672年, 西暦2001年〜2008年
【4.鳳凰編】〜752年
【5.羽衣編】西暦940年頃
【6.乱世編】西暦1172年〜
【7.異形編】西暦1468年を含む30年間
【8.生命編】AD2155年〜
【9.望郷編】(具体的な年代は明らかではない)
【10.宇宙編】AD2577年
【11.復活編】AD2482〜2484年、AD2917年〜3344年
【12.未来編】AD3404年

以下、各「編」の個別レビューです。

【1.黎明編】ストーリーの軸が定まらず、つまらない作品

朝日版で336ページ。時代は3世紀頃。本作品(「火の鳥」【1.黎明編】)は、ヒミコの時代の日本が舞台。ヒミコ率いるヤマタイ国がクマソ国を滅ぼし、次はヤマタイ国がニニギ率いる渡来系民族に滅ぼされるというあらすじだ。
火の鳥は永遠の生命を得るためのキーアイテムとして登場する。キーアイテムをめぐる追いかけっこという軸でストーリーが展開するのかと思いきや、なぜかヒミコ以外に火の鳥(の生き血)を切望する者が現れないため散漫で読者を惹きつける魅力に乏しいストーリーになってしまっている。

ヒミコは良キャラだ。ヤマタイ国の独裁者だが老いによる自らの力と美貌の衰えに悩み火の鳥(の生き血)を切望する。

主人公ナギは火の鳥を欲っする動機がフラフラ定まらない。
ナギ「火の鳥はおれたちクマソのものだ 誰にも渡しゃしない」
…このセリフ動機が弱過ぎて棒読みに見えてくる。
そして火の鳥を追いかけて火の壺に行き対面。
ナギ「何故お前だけが死なないでおれたち人間はみんな死んでいくんだ。どうしてそう不公平なんだっ」
火の鳥「不公平ですって?あなたがたは何が望みなの?死なない力?それとも生きてる幸福が欲しいの?」
ナギ「おれにゃ分からねぇ!だがお前くらい死ななけりゃ幸福だろう」
追い求めてきた火の鳥が目の前にいるのに弓に矢を番えもせず顔を手で覆って悩み、そのまま一矢も放たずに火の鳥を取り逃がすナギ。たったの一言で揺らぐ程度の決心だったようだ笑。
その後、死んだと思っていた姉・ヒナクに再会し、
ナギ「おれがきっとしとめて姉さんに飲ませてやる」
…と一応動機ができるが特に火の鳥を狩りに行くような描写もなく、その後タナボタで火の鳥を手に入れた時には、
ナギ「この鳥はおれんだ おれのもんだぞっ」
…とヒナクの事はすっかり忘れている。

ニニギは火の鳥に全く興味を示さない笑。
ニニギ「おれは火の鳥なんかに興味はない。永遠の生命?ふん そんなものが何の役に立つ?」
いや、役には立つだろと思うが笑。
なお、本作品ではニニギノミコト(瓊瓊杵尊)は初代天皇神武天皇と同一人物として描かれているが、Wikipediaによれば神武天皇ニニギノミコトのひ孫にあたる別人物。

グズリ・ヒナク夫妻は滅ぼされた国を再興するために一千人子どもを産みたいという狂気じみた目的のために一応火の鳥を欲しているようだが、火の鳥を仕留められる程の人並外れた狩りの才能も無ければ努力もしていないので当然火の鳥に近づく事はできない。
ヒナク「あたし死ぬまでに一千人でも産むの。そしてその子たちが大きくなったらまた赤ちゃんを産んで…何千人にもなったらまた村ができるわ」
グズリ「おれはヒナクのためにきっと火の鳥をしとめてヒナクに血を飲ませ…死なないからだにしてやって…子どもを一千人産ませてやろうと思ってな」

こんな面々でストーリーがまとまるわけもなく、終盤は主要キャラのヒミコ、猿田彦、ナギ、弓彦が次々に死んで、ニニギは日本を征服、グズリ・ヒナクの息子タケルが成長して閉ざされた谷底から崖をよじ登り「俺の冒険はこれからだ!」的な終幕。
私の買ったコンビニコミック版の単行本の表紙には「生命の本質を問う巨匠入魂の大作!」との煽り文句があるが、完全なる過大評価だ。

【2.ヤマト編】「火の鳥」全12編の中では3番目に面白い

朝日版で170ページ。時代は4世紀頃。本作品(「火の鳥」【2.ヤマト編】)は【1.黎明編】のラストから約80年後の設定で、【1.黎明編】のラストで旅立った若者タケルは本作品では"おじい"として登場する。【1.黎明編】でヤマタイ国に滅ぼされたクマソ国は"おじい"によって復興、【1.黎明編】でニニギ率いる渡来系民族が興したヤマト国と対立している。

本作品は火の鳥の他の「編」と比べると比較的面白いというのが私の評価だ。
最初から最後まで主人公ヤマト・オグナ(のちにヤマト・タケル)に焦点が合っていて、火の鳥の存在もストーリーに自然に関わっていてプロットを邪魔していない。火の鳥まわりのフィクションを除けば史実(日本書紀古事記は史実というより神話かもしれないが)にほぼ準じていて、読後にWikipediaを読んで比較するのも面白い。

本作品のテーマのひとつは、オグナがその生涯を捧げた「殉死反対」だ。
そしてもうひとつのテーマは作中のクマソの"おじじ"と川上タケルが語る言葉に含まれる。

オグナ「なぜ火の鳥をつかまえて血を飲まないんだい?そうすれば老いぼれずに…」
おじい「お若いの 人間はな死なない事がしあわせではないぞ。生きているあいだに…自分の生きがいを見つける事が大事なんじゃ」
川上タケル「オグナおぬしも悔いのない一生をおくれ。力一杯生きるのもいい。そうすれば たった五十年の人生だって十分のはずだ」

間違ったことは言っていないが、これをセリフで表現するのは三流だ。直接的に表現するのではなく、ストーリーを通じて読者がそれを心で感じることができるような、一流の物語を見たかった。

【3.太陽編】十市媛のシーンは切なくて美しい

朝日版で734ページ。本作品(「火の鳥」【3.太陽編】)は7世紀と21世紀を行ったり来たりしながら物語が進行する。7世紀のストーリーの具体的な年代は白村江の戦い(西暦663年)から壬申の乱(西暦672年)あたりまでで、21世紀のストーリーは2001年に幼い日のスグルがシャドーに連れていかれる描写があり、それをスグルが「7年前の"あの日"」と回想しているので2008年。
7世紀のストーリーでは【7.異形編】との関わりもある。仏教の神々と戦い傷ついた日本土着の神々(妖怪ともいう)が火の鳥に導かれて【7.異形編】の八尾比丘尼の元に行き治療を受ける。

7世紀と21世紀、両ストーリーの主要登場人物はかなり明確に生まれ変わりを匂わせるような設定となっている。
7世紀:21世紀
神宿禰(百済王族のハリマ):坂東スグル
おばば:イノリ
狗族のマリモ:小沼ヨドミ
大友皇子:光教団の教祖 大友
大海人皇子(天武天皇):シャドーのリーダー “おやじさん”

本作品は【4.鳳凰編】に次ぐ名作だと思う。
壬申の乱の背景には、国策としての仏教の布教と土着信仰の対立があったのではないかという考察、そして仏教の神々と日本土着の神々が登場して戦うファンタジー要素もうまく融合している。手塚治虫の歴史モノは、歴史に対する考察がいいかげんなのをフィクションでお茶を濁すパターンが多く 【6.乱世編】もその悪いパターンのひとつだが、本作品は非常に良い歴史モノに仕上がっている。

史実がしっかりと描かれているから、本作品の読後にWikipediaを読むのも楽しい。中大兄皇子(天智天皇(第38代天皇))、大友皇子(弘文天皇(第39代天皇))、大海人皇子(天武天皇(第40代天皇))、壬申の乱Wikipediaの項目は必読だ。

なお、【4.鳳凰編】では本作品のエンドの約70〜80年後の時代が描かれているため、その後の日本の仏教政策がどうなったのかという観点で合わせて読むと面白い。
国策としての仏教に対しては本作品も【4.鳳凰編】も否定的な立場で一貫しているが、仏教の創始者ブッダの生涯を描いた手塚作品「ブッダ」ではどのように描かれるのか?「ブッダ」も合わせて読みたい。

7世紀の方のストーリーが良く出来ているのに対して21世紀の方のストーリーは凡庸(というかはっきり言えばつまらない)だが、7世紀のストーリーの後日譚として読めるのでこれも許せるレベルに引き上げられる。

私が本作品で好きなのは十市媛(とおちのひめみこ)。十市媛は大海人皇子の娘で、政略結婚で対立する大友皇子の許嫁になっている。
処刑される事になった犬上の脱走を密かに手助けし、人目につかない雨の祠の中で犬神に告白するシーン。
十市媛「アハハハ…私は人質妻!好きでも無い男を夫に持つの」「私まだ14歳なのよ…もっと青春を思いっきり自由に過ごしたかったのに」「人質になって無理やり婚姻を結ばされたんです。そうすれば父も近江に手出しできませんものね。だから私だってバカ娘のふりをして夫を近づけないの」「私…あんな人の赤ちゃんなど産みたくない」

十市媛「私をどう思います…狂った勝手な女だと思う?それとも同情して頂ける?」
犬上「お気の毒だと思います」
十市媛「私を抱いて!!」
犬上「なにを言われます!!」
十市媛「遠慮はいりません。どうせ雨が止めば私たちは別れるのです…それまで抱いて」「もっと」
犬上「こんなことを…いけません 媛」
十市媛「そなたをずっと離したくないのです。たとえ近江とて 私たちのこの一刻を割くことはできぬ…」
…雨が止み…
十市媛「お行き。今日のことは忘れておくれ一切!」
で未練を振り切るようにサッと立ち去る媛…。

「ケモナーたまらん」とかいう下らない事ではなく、十市媛の儚い人生の中の光り輝いたひとときだったろうと思うと、人生の美しさが感じられて本当に好きなシーンだ。

【4.鳳凰編】「火の鳥」全12編中最高傑作

朝日版で357ページ。本作品(「火の鳥」【4.鳳凰編】)は【3.太陽編】の終盤で天武天皇(大海人皇子)が即位(西暦673年)してから約70〜80年後の時代だ(本作品終盤の東大寺の盧遮那仏の開眼式の西暦752年から起算)。
他の「編」との関わりは、茜丸火の鳥の手掛かりを探している時に、【2.ヤマト編】で川上タケルが書いたクマソ国の歴史書の中の火の鳥の記述を見つけるというシーンがある。また、我王が東大寺の鬼瓦の製作時にトランス状態に入った時には、【10.宇宙編】の猿田とおぼしき人物と【12.未来編】の猿田博士の他、「政治とたたかったため」に銃殺刑に処された「千年後の子孫」も登場する。この「千年後の子孫」は「火の鳥」全12編には登場しないキャラで、もし火の鳥の執筆が続いていたら登場する予定だったキャラかもしれない。

【4.鳳凰編】は良キャラの宝庫だ。まずダブル主人公の我王と茜丸。我王は序盤は自分が生き抜くためには人殺しも厭わないが、良弁僧正(上人さま)との旅そして上人さまの死を経験して「生きる?死ぬ?それがなんだというんだ。宇宙のなかに人生などいっさい無だ!ちっぽけなごみなのだ!」と悟る。対して茜丸は序盤は謙虚で清らかな心を持っているが都で名声を得るにつれ奢りや嫉妬の心で自分を見失っていく。どちらかが正義でもう一方が悪なのではなく、両者とも清濁併せ持つキャラなのが良い。
献身的な性格の我王の彼女・速魚もいいし、奔放な性格の茜丸の彼女・ブチもいい。
権力欲が旺盛な橘諸兄吉備真備の争いもいい。

【4.鳳凰編】は「火の鳥」全12編の中で最高傑作というのが私の評価だ。

【5.羽衣編】存在意義が無くなってしまった作品

朝日版で44ページ。舞台は三保の松原、時代は朝日版では「今は平将門ちゅう人が殿様だ」というセリフから940年頃だろうか。
本作品(「火の鳥」【5.羽衣編】)は「火の鳥」全12編のどれとも関わりがない独立した話で、火の鳥も登場しない。
本作品は「望郷編(COM版)」のエピローグとして描かれた「編」だ。
「望郷編(COM版)」とは「火の鳥」の幻の「編」のひとつで、掲載雑誌「COM」の廃刊のために2話で中断し未完となった作品で、その後同じタイトルで新たに仕切り直して描かれた【9.望郷編】とは全く別のストーリーだ。
当初の構想通りに「望郷編(COM版)」のエピローグとして機能していれば面白いアイデアだったと思うが…そうではなくなってしまったので、たった44ページの本作品に私はほとんど何の価値も見出せない。「望郷編(COM版)」と一緒にお蔵入りさせても良かったのではないか。

【6.乱世編】歴史モノの失敗例

朝日版で596ページ。本作品(「火の鳥」【6.乱世編】)は西暦1172年から始まり「平家物語」の時代を平清盛源義経、弁慶(弁太)、吹子(おぶう)を通して描く。【4.鳳凰編】の我王が本作品では鞍馬の天狗としてなんと400歳超え(!)で登場する。

平氏の反対勢力がクーデターを企てたいわゆる「鹿ヶ谷の陰謀」に始まり「木曾義仲の上京」「一ノ谷」「矢島」「壇ノ浦」まで数多くの歴史上の事件を描いているが、史実を表面上だけなぞっているだけで物語に重みが感じられない。歴史モノというのは、戦争があってどっちが勝ったという事を描くのではなく、歴史上の人物たちが普段どのような生活をし、事件のときにどのような事を考え決断し行動したのか、史実に残っていない部分に著者が深く深く想いをいたして創り上げる物だ。そこにリアリティが生まれて初めて、読者は歴史上の人物たちに深く共感し、感動するのだ。
そういった史実に対する深い考察に基づいて登場人物たちの行動の理由を求めるべきところを、本作品では「火焔鳥の生き血を飲むと永遠の生命を得られる」というフィクションを持ち込んでそれを安直な答えとしている。

木曾義仲「火焔鳥はどこだ!」
源頼朝義経めがおれを出し抜いて火焔鳥の血を飲む…そんな事は断じて許さんぞ」

こういうシーンが出てくるたびに心底ウンザリさせられた。手塚治虫はもっと歴史をリスペクトするべきだ。

この編では本物の火の鳥ではなくただの孔雀を「伝説の火焔鳥」として追いかけ回すが、(朝日版の場合)物語の最後で死後の世界(?)に本物の火の鳥が現れ、清盛と義経を輪廻転生で生まれ変わらせるシーンがある。(ちなみにこの時、時間を遡行して清盛と義経が死ぬ前の時代に生まれ変わる。手塚のフィクションは何でもアリだ。)

火の鳥「あなたがたは前の世界では敵同士でした。この次の世界でもたぶんそうなります。永久に同じ宿命なのです。」
義経「そんなの面白くねえよ!!」
清盛「そう!」
火の鳥「あなたがたは初めは仲良く力を合わせて生きて行きます。でもやがてお互いに戦い出し殺し合うのです。それが宿命です。」
火の鳥「さあお行き!あたらしい世界へ!そして精一杯お生き!」

そしてふたりは犬と猿に生まれ変わり、また激しく争うのだが…だから何だというのか?輪廻転生だとか永遠の宿命だとかよりも、「今を生きる」事こそが人生の美しさであり真理ではないのか。
冒頭で弁太とおぶうが森の中の野原で抱き合うシーンは単純だがそれだけで美しい。
手塚は戒めるような論調で描いているが、平家への復讐の鬼と化す義経や、平家の繁栄・存続のために奔走・迷走する清盛だってひとつの美しさだろう。

私が一番好きなシーンは、終盤に弁太が奥州平泉のヒノエが待つ家に帰るシーンだ。
走り寄って抱き合う2人。
ヒノエ「ウソじゃなかったンね。やっぱり帰ってくれたんね。もうどこにも行かない?」
弁太「あーどッこへも行くもんかよ。オイラァもう家を一生離れねえだ」
ヒノエ「あんた運が強いんだよ。それに仏さんのお守りがあったんだよ。仏さんに毎日頼んでたからねっ」
弁太「そうだな。この仏さん安もんのわりにご利益があるなー」
ヒノエ「ねえ こどもを欲しいって頼んで!」
で1枚のボロ布団に2人で入るシーンの幸福感!火の鳥がどうとか輪廻転生がどうとか心底どうでもいいと感じる瞬間だ。

【7.異形編】ストーリーがコンパクトで良い

朝日版で112ページ。本作品(「火の鳥」【7.異形編】)の時代は応仁二年(西暦1468年)を含む30年間。他の「編」との関わりは、【3.太陽編】の戦で傷ついた妖怪たちが本作品の八尾比丘尼のところに傷の治療を受けに来る事で繋がっている。

手塚は本作品について「【7.異形編】【8.生命編】の二つとも、人間が他人の生命をないがしろにしたために、自分に報いがくるというテーマ」と語っており、実際に作中では手塚のこの声を火の鳥が代弁している。

火の鳥「あなたは人殺しの父を憎んだ それなのに あなた自身 人を殺したではないか?」
左近介(八百比丘尼)「…でも父が助かれば もっともっと大勢の人間が殺されたわ!」
火の鳥「だから仕方が無かったと言うのですか?罪は同じです!!だから裁きを受けるのです」

火の鳥」の他の「編」と同じく説教臭い本作品だが、それでもストーリーがコンパクトで無駄が少なくメインのトリックも面白いので私は比較的好きだ。
でも、メインのトリックの説明には一部納得いかない部分があり、やはり手塚漫画は雑だなぁと思ってしまう。

【8.生命編】クローン人間に対する考察が足りない作品

朝日版で138ページ。本作品(「火の鳥」【8.生命編】)はAD2155年から始まる。

手塚は本作品について「『【8.生命編】』『【7.異形編】』の二つとも、人間が他人の生命をないがしろにしたために、自分に報いがくるというテーマ」と語っている。手塚が言っている罪というのは、おそらく本作の主人公・青居がクローン動物ハンティングの番組を製作していたことを指しているのだろうが、これを訴えるためには、クローン動物のトラ(?)のデザインがよろしくない。AD2155年の未来感を出したかったのか、トラの目には瞳がなく魂が宿っているようには見えない。生き物を殺すことが罪とされる所以は、相手の生体活動を破壊して停止する事ではなく相手の魂を殺す事にあると私は考える。「生命に対する罪」を印象付けるには、ロボットなのか生き物なのかも判然としないトラのデザインは問題だ。

クローン人間に対するスタンスも同様で今ひとつ判然としない。手塚はクローン人間と自然に生を受けた人間の違いについてどう考えていたのだろうか?両者は何ら変わることない存在なのか、またはクローン人間は本来の人間にある何かが欠けてしまった存在なのか。
実際の科学の話は置いておいて、この物語の中ではどうなのかはっきりさせてから物語を進めてもらいたかった。これがはっきりしていなければ、物語の中でクローン人間が殺されたりクローン人外狩りに熱狂する大衆を見た時に、読者はそれがどのくらい道徳に反する事なのか判断できない。
クローン人間に関する道徳の問題を提起するには、クローン人間に対する考察が足りなすぎる。

それからチョイ役で登場する猿田という男。自分のクローンを作り、失恋した相手に引き合わせて自分の代わりに結婚させようとするとか、全く理解できない笑。手塚の頭の中は摩訶不思議だ。

そもそも私は、悪いことをした奴が神に近い存在から罰を受けると言うストーリーの骨子自体が既に気に入らない。手塚神が自らのたったひとつの価値観のみに照らして大上段から人間の行動の良し悪しを判定し罰を下すなんて、そんな傲慢な態度の方がむしろ生命を侮辱していると言えるのではないだろうか。

【9.望郷編】詰め込みすぎて破綻したストーリー

朝日版で416ページ。本作品(「火の鳥」【9.望郷編】)は具体的な年代表記は出てこないが【8.生命編】より後、【10.宇宙編】【11.復活編】よりも前の時代とされる。

私はこの物語を [序盤], [中盤], [終盤], [エピローグ]と分けて考える。
[序盤]:惑星・エデン17でロミが子孫を繋いでいこうとする奮闘記
[中盤]:「死ぬまでにたった一度でも地球に帰りたい」年老いたロミと、ムーピーとの混血児コムが地球へ向かう旅
[終盤]:地球に着き、そして故郷の景色にたどり着くまでの旅、そしてロミの死
[エピローグ]:エデン市民の堕落と破滅

たくさんの要素が滅茶苦茶に詰め込まれているが、私はこの物語は[序盤]と[エピローグ]だけで十分だったと思う。

[序盤]のロミのセリフ
ロミ「あなたとあたしとは 夫婦にならなければいけないわ そうでないと この星は 人間がとぎれてしまうもの」
手塚の独特な価値観の押し付けが鼻につくが、それでもロミとその子供、孫が近親相姦の禁忌を犯しながらも子孫を残そうと奮闘する序盤は読者を惹きつける面白さがある。

[エピローグ]では、争い事など一切なく平和に暮らしていたエデン市民が酒・ギャンブル・武器を得た途端に自滅して滅んでしまう。これは上手いオチになっていると思う。
ただ、エデン市民はここまでにキャラ描写がほぼゼロのモブキャラで、それが何十万人死のうと読者にとってはほとんど何の感慨も湧かないのは残念なところだ。

[中盤]は地球に向かう旅の途中で、いくつかの風変わりな惑星に立ち寄る銀河鉄道999みたいな構成のエピソードだが、これが酷い。もはや寓話のような説教めいたメッセージすらも読み取れない、常人の理解を超えた手塚ワールドが展開される。本当に、このエピソードを通じて一体何を言いたいのか全く分からず、本作品のストーリーの中でも何の意味も成しておらず完全に蛇足だ。

[終盤]はロミが念願の故郷を訪れる「望郷」の旅のクライマックスだが、私の気持ちは全然盛り上がらなかった。「最愛の人に再会したい」と言うなら理解できるが、「故郷の景色を見たい」ってそんなに人生を賭けるほどの事だろうか?故郷に着いてからたったの1日で死んでしまうのも、最愛の人に再会してこれからずっと一緒に暮らしたいってところで死んでしまうのなら悲劇たりうるが、景色を見たいだけなら1日で十分じゃないか。そもそも、自分を慕うたくさんの子孫たちが暮らすエデンこそがもはやロミにとっての故郷ではないのか。地球で死んだロミの亡骸を牧村がエデンに運んで埋葬し、情感たっぷりにサン・テグジュペリの「星の王子さま」を読み聞かせるのがこの物語のラストシーンになっているが、だからなんだって言うのか?死んだ後にどこに埋葬されるかよりも、「どう生きるか?」が問題だ。自分を慕うたくさんの子孫たちを愛さず、空虚な「望郷」の思いのせいで死んでいったロミの生き様は、私の心に何の感動も残さなかった。

【10.宇宙編】サスペンス仕立ての「火の鳥

朝日版で151ページ。本作品(「火の鳥」【10.宇宙編】)はAD2577年、5人の宇宙飛行士が乗る宇宙船の中で起きた事件から始まるサスペンス仕立ての物語だ。短めの「編」であることが功を奏して無駄なエピソードが無く最後まで飽きずに読みやすい。読みやすいが…特に何の感動もない。

5人の主要キャラのうち1人も共感できるキャラがいないのだから凄い。

一番マシなのは船長の城之内。この人は良い事も悪い事もしない空気キャラ。
次にマシなのは一宮ナナ。牧村への揺るがぬ恋心は理解不能だがこの人も悪い事はしていない。
奇崎は冬眠中の牧村への殺人未遂。
猿田は赤ちゃんに戻った牧村への殺人未遂。
牧村は惑星フレミルの鳥型人間の妻へのDVと殺害、それから惑星フレミルの鳥型人間全員を大量殺戮。

手塚先生、読者はどのキャラに自分を重ね合わせたらいいですか?

それから、猿田への罰の大きさについて。猿田は赤ちゃんに戻った牧村を殺そうとしたが結局未遂だ。未遂罪に対して「あなたの顔は永久に見にくく…子々孫々まで罪の刻印がきざまれるでしょう」「おまけにあなたの子孫は永久に宇宙をさまよい みたされない旅をつづけるでしょう」はあまりに罰が大きすぎるのではないだろうか?

【11.復活編】ロボットや魂(=自我)に対する考察が足りない作品

朝日版で313ページ。本作品(「火の鳥」【11.復活編】)は、「火の鳥」の主要キャラの1人であるロビタ誕生の物語だ。AD2482〜2484年は宮津レオナが主人公でロビタが誕生するまでの話で、AD2917年〜3344年はロビタのその後の話。
結構行ったり来たり複雑な話なのであらすじをまとめる。

AD2482年、宮津レオナは交通事故で死ぬが身体の大半をサイボーグ化されて生き返る。このときからレオナは、人間よりもロボットに親近感を覚える嗜好になってしまい、やがて出会ったロボットのチヒロに恋をする。「自分は人間なのかロボットなのか」レオナは苦悩する。
AD2484年、レオナはチヒロを会社から"盗み出し"て駆け落ちする。2年の間、悩んだ末にレオナは結局自分が元々人間であったという出自よりも現在の自分の感情を信じる事を決心したのかもしれない。しかしその旅先で再び事故に逢い重体となったレオナは死ぬ間際にマッドサイエンティストのドク・ウィークデーにお願いをする。
レオナ「ぼくの…心を…チヒロに…うつしてほしい… 」「心は…あのチヒロと…結ばれたい…」
ドク「わかったよ」「たぶん そのロボットの心とおまえさんの心とは まじりあって一つになって活動するじゃろうテ」
かくしてレオナとチヒロは死後の世界(?)で一つになり、ロビタとして新たに生まれ変わる。
ロビタは生まれた直後ははっきりとレオナの意思と記憶を持っているようだが、「一年後」の登場シーンではもうほとんど自我を失って「ロビタ」になっているように見える。

AD2917年、ロビタは他の人間に拾われて家族同様にかわいがられ、その後大量に複製される。
AD3009年、一体のロビタが無実の殺人罪の疑いをかけられる。

AD3030年、有罪判決となりロビタの溶解処分が決定。
ロビタ「私達ハ昔タッタ一人ノロビタカラ別レテ増エタ 兄弟デス」「私達ハ全部ガ一人デ 一人ハ全テデス」「モシ私達ノ一人ガ死刑ニナレバ ロビタハ一人残ラズ死ヌデショウ」
で、世界中の全てのロビタが一斉に集団自殺
そのとき月面の倉庫番をしている男に使われていた1台のロビタだけは自殺することが叶わなかったが、ほとんど消えかけていた自我を取り戻す。
ロビタ「私ハ人間デス」「少ナクトモ 先祖ハ人間ダッタ!キットソウダ」「私ハ今マデ 感情トカ愛情トカヲ 感ジタ事ハ無カッタ ダカラ今私ノ目覚メタ意識ハ只ノ気分デハ アリマセン」「確カニ 私ノ心ノ ドコカニ 人間ダトイウ意識ガ生マレタノデス」
ロビタは倉庫番の男を殺し、月面に一人取り残される。

AD3344年、月面に300年間あまりも一人取り残されたロビタは猿田博士に拾われる。

感想。本作品はロボットという存在がテーマとなっているが、設定の作り込みが甘すぎるために物語に気持ちを集中する事ができなかった。

まず、レオナが身体の大半をサイボーグ化されて生き返ってから、人間よりもロボットに親近感を覚える嗜好になってしまい、やがて出会ったロボットのチヒロに恋をするという設定。いやいやいや…「ねーよw」の一言だ。

次に、ロボットは魂を持つ存在なのか、魂を持たない只のプログラムなのかという問題。

まずはチヒロから。レオナから見て、チヒロが魂を持った人間の女性のように見えていたのはおそらくレオナの幻覚で、実際は魂を持たない只のプログラムだったというのが常識的な見方だ。しかし、レオナの「心」をチヒロの電子頭脳に移した時にレオナとチヒロが死後の世界(?)で一つになる描写は、明らかにチヒロが人間同様に魂を持った存在であるという手塚のメッセージだ。

次にロビタ。「ロビタは他の種類のロボットと違いどこか人間臭さを備えていた」という説明からは、ロビタが魂を持った存在である事を匂わせる。1台目のロビタはレオナとチヒロの魂が入っているという事だからそうだろう。しかし大量生産されたロビタはどうだろう?レオナとチヒロの魂がコピーされて全てのロビタに入っている?まさか。魂とは自我だ。自我がコピーされたらそれはもう自我ではない。または、ロビタが生産された時に他の生物の誕生と同様にどこからか輪廻転生してきた魂が宿り、ストレージに記録されたレオナとチヒロの記憶を自分自身の遠い過去の記憶のように錯覚して生きている?それだと一応説明がつく気がするが…。

真面目に考察していたらバカバカしくなってきた。もうどうでもいい。

【12.未来編】「宇宙生命(コスモゾーン)」論は一見の価値あるかも

朝日版で283ページ。本作品(「火の鳥」【12.未来編】)は、【11.復活編】の最後でロビタが猿田博士に拾われた約60年後のAD3404年から始まる。
本作品には火の鳥の正体の説明が含まれる他、AD3404年から始まった物語がそこからはるか何億年進み、なんと【1.黎明編】に戻って繰り返すという「火の鳥」全12編の"円環構造"も明らかになる。

本編で一番のキーワードとなるのが手塚治虫が創作した「宇宙生命(コスモゾーン)」という概念と言葉だ。以下引用。

火の鳥「私は(地球の)分身なんです」「わたしは地球のからだの一部なのですよ…動ける細胞みたいなもの」
火の鳥「星はみんな生きているのですわ。もちろん生きているといったって あなたがたの考えている生きものとは異質なものです。これは宇宙生命(コスモゾーン)なのですわ」「太陽も生きものですし 銀河の中の星々はみんなそうですの」

火の鳥「わたしのからだには宇宙生命(コスモゾーン)がもう何倍も何十倍もはいっています。あなたもそれに加わるんです。さあいらっしゃいマサト。わたしの中に飛びこんで!!」「どう?マサト これがみんな私のからだの中の宇宙生命(コスモゾーン)たちよ あなたを歓迎しているのよ」
タマミ「タマミよ おぼえていて?ムーピーのタマミよ」
マサト「タマミ!! 思い出した きみか きみも宇宙生命(コスモゾーン)になっていたのか!?」
ー マサトとタマミだった二つの宇宙生命(コスモゾーン)は一つに合わさった。そして何十億もの宇宙生命たちの中へすいこまれていくのだった

宇宙生命(コスモゾーン)についてはインターネットで調べていて見つけた「心に残る家族葬」というWebサイトの説明が面白かった。曰く、「宗教・スピリチュアリティにおける死後の行方を大きく分類すると、『他界』型と『転生』型の二つに分けられると思われる。さらに第3のタイプとして『コスモゾーン』型(がある)」と。
このように「死後の行方について第3のタイプを提唱した」と捉えると本作品は凄い。

しかし、このコスモゾーンという凄いアイデアを使ってどのようなストーリーを描いているかと言うと…以下引用。

火の鳥「宇宙生命(コスモゾーン)もあなたがたのように病気になります」「そして…地球も病気になったのです。かかりはじめは一千年ほど前でした。…この病気の兆候はすぐ地球の上にあらわれてきました。動物はどんどん滅び去っていき…人間たちの進歩もぱったり止まりました」
火の鳥「地球は死んではなりません『生き』なければならないのです」「人間を生みだして進化させたのにその進化のしかたがまちがっていたようです」「人間をいちど無にかえして生みなおさなければならないのです」
ー 生物が滅びてまた現れて進化して栄えて滅びた…火の鳥の目の前で何度繰り返されたことだろう…そして何度目かの人間が今また同じ道を歩もうとしている
火の鳥「ここではどうしてどの生物も間違った方向へ進化してしまうのだろう」
ー 「でも 今度こそ」と火の鳥は思う。「今度こそ信じたい」「今度の人類こそきっとどこかで間違いに気がついて…」「生命を正しく使ってくれるようになるだろう」と…

…ダメだこりゃ。俯瞰視点から「人類は愚かだ…」と言ったってそこには何の感動もありゃしない。読者の心を動かすための物語としては完全に失敗している。
大体、死後の世界がなんであろうと生きている人間がするべき事は「今、この時」を精一杯生きる事で変わりがないし、自分のなすべき事を精一杯やっている人は「人類は愚かだ…」と他人事について嘆いたりしない。
大宇宙から見てひとりの人間の人生がいかにちっぽけで無意味であろうとも、私はそういうちっぽけな人生の輝きを描いた物語を読みたい。

なお、角川書店版の巻末解説は、幸福の科学の信者だった影山民生さんが書いている。
「人間も、その他のあらゆる生命体も、実は転生輪廻というシステムにより永遠の命、肉体を離れた後も意識として生きつづけ、また次なる肉体に宿ることによって、次なる三次元的生活を繰り返していく存在であることを、手塚先生は明快に主張しているのである。これはまさに、菩薩以上の悟りであり、手塚先生は、それをハッキリと知っておられたということになる。」
死後の世界の科学的根拠がない話に「ハッキリと知っていた」という表現が出てくるところが非常にいい味を出していて好きだ笑。
あと、「地球もその他の惑星、恒星も、そしてそれを包括している宇宙も、それぞれに生命体としての存在であり…」このような考え方を「ガイア理論」と一般に呼ぶ事もこの解説で学ばせてもらった。この解説は必読である。