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空気を読まないサラリーマンをやってます。1980生まれ男です。既婚。2011年生まれ息子、2013年生まれ娘あり。

(感想)NHKスペシャル「失われた時をこえて 〜“認知症家族”の3年〜」

NHKスペシャル「失われた時をこえて 〜“認知症家族”の3年〜」を見た。

【番組説明】(初回放送:2023年6月10日)
コロナ禍、施設や病院では感染拡大を防ぐため、面会を制限、家族同士の直接の触れあいが絶たれたまま時間を重ねることとなった。大きな影響を受けたのが認知症の家族だ。これまで、周囲の人々は、認知症の進行を少しずつ受け入れながら時を重ね、それぞれの家族の形を築いてきた。その時間が失われたとき、家族は何を思い、どのように最後の時を刻もうとするのか。大阪で暮らす認知症の妻とそのもとに通い続ける夫の3年間の記録。


新型コロナウイルスが日本国内で本格的に流行し始めたのが2020年4月頃、感染症の分類が2類から5類に格下げされたのが2023年5月。番組タイトルの"3年"とは日本中が新型コロナウィルスに警戒していた期間を指す。

番組には4組くらいの家族が出てくる。いずれも、認知症の家族を介護施設に預けて、新型コロナウイルスの感染拡大防止策の面会制限によって、家族との関わり方に大きな影響を受けてしまった人たちだ。

番組では、次のような場面が出てくる

・(窓越し面会で)室内の認知症のおばあちゃんに、子供が窓の外で一輪車に乗っている姿を見せる風景
・同じ空間で会えない面会(窓越しやオンライン):137/252施設
・面会制限は認知症の進行に「影響があったと思う」:54%
・(認知症の患者が)「家族の関わりが減ったことから生活のメリハリが失われ日にちや時間が分からなくなった」「限られた人とのコミュニケーションしかとれず刺激がほとんどない生活で表情などが乏しくなっていた」
・「家族さんにも(窓越し面会で)2年以上待っていただいている」
・「独りで孤独、孤立化してしまって施設の中で刺激のない生活をずっと続けている。そうすると長い時間をかけて意欲が低下してしまう。例えば身の回りのこと食事をしたり薬を飲んだり着替えたり日常のことをする能力が衰える」
・(大阪の特別養護老人ホーム)「以前は入所者と家族が自由に会うことができましたが、面会制限せざるをえなくなりました。大半の人が認知症です。(面会制限したにも関わらず)去年の2月、クラスターが発生…。」

認知症の母が病院に入院している西田さん、面会制限が緩和される中、久しぶりに寝たきりの母に面会する。ベッドの上でまどろんでいる母に「恵子だよ」といって手を触れるが、母は「覚えとらん」。表情も変わらない。

・山下さん家族。仕切り板の向こうから話しかけても反応の悪い認知症のおばあちゃんにたまりかねて、孫がアクリル板の横から顔を出してマスクを外して「エリナよ、わかる?」。おばあちゃんもやっと思い出して「エリナか、大きくなったね」。家族が帰ってから、「面会に来てくれて嬉しい」と涙を流す。

・大川さんがこの3年間、認知症の母親と面会できたのは1年に1回だけ。コロナ禍の前、大川さんは2日に一度は病室に立ち寄っていた。(コロナ禍が終わり)月に一度可能になった母親との面会。
・大川さん「お待たせ、長いこと待たせたね」認知症の母親は寝たきりで表情の変化も少ない

・(2020年7月、吉田さん久しぶりの面会、ただし窓越し面会で)室内の認知症の妻に、吉田さんが窓の外から「愛してるよー」、妻「どーぞ」(この日は割と上機嫌)。吉田さん「現状を確認することができ安心できたことは大きな喜びでしたが、一方で膨らませていた再会の希望とはかけ離れた面会でしたので、傍らにおれないことで耐え難い思いになっています」
・(吉田さん、窓越し面会で)室内の認知症の妻に、吉田さんが窓の外から用意してきた写真などのパネルを見せて必死にコミュニケーションを取ろうとするが、妻はあまり反応がない
・(2022年4月、吉田さん、窓越し面会で)「笑顔を向けてくれることが何度かありましたが「お父さんや!」と私を意識した時の笑顔とは違っていました。このような面会の日は寂しさを感じます」
・「吉田さんが妻とほとんど会えない時間は、3年間続きました」
・同室での面会が久しぶり(約3年ぶり?)に解禁となるが、吉田さんと妻との間には大きなアクリルの仕切り板が設置されている
・仕切り板の向こうから話しかけても反応の悪い認知症の妻にたまりかねて、吉田さんがアクリル板を横から越境して妻の手を触ると、妻は手を振り払う

・「(コロナ禍が終わり)失われた時を超えて、認知症家族は再び同じ時を刻み始めています」でEnd。

衝撃的な場面の連続で、やるせない気持ちになった。「マスクを外せない日本人問題」のずっと深刻なやつがここにはあった。

日本人が「マスクを外せない」のは大きくふたつの原因によると思う。
ひとつ目の原因は「忖度文化」。「周りの人は、私がマスクをしていないことを不愉快に感じるんじゃないか?」と考えてしまう。新型コロナが5類に格下げされて以降、マスク原理主義の人って実際はほとんどいないと思うんだけど、「マスクを付けないと他人に白い眼で見られる」という忖度だけがしつこく残っている。
ふたつ目の原因は「減点主義」。「マスクをしていなかったら風邪をひいた」という分かりやすい減点項目には目を向けるが、(マスクを外すことで)「呼吸がしやすくてちょっとうれしい」「相手の表情が見えてちょっとうれしい」というささやかな加点項目にはあまり目を向けないし軽視する。「それは私が我慢すればいいから」となってしまう。

コロナ禍が日本に残した「マスク文化」は、人々の毎日から少しずつ、しかし確実に人生の彩りを奪っていると思えて私は非常に遺憾に思っているのだけど、それでも、所詮はマスクの話。それに、他人にマスクを外させることはできなくても、自分がマスクを外すことに関して文句を言われることはほとんどない。

一方で、コロナ禍の介護施設の面会制限の問題は、「マスクを外せない日本人問題」よりもずっと深刻だ。
「面会制限を緩めたことで施設内で感染爆発が起こって多くの入居者が死ぬかもしれない」となると健常者のマスクなどよりもずっと強力な忖度と減点主義志向が働く。
それで施設側が強力な面会制限を定めたら、入居者側はそれに従わないわけにはいかない。

老人介護施設で、感染症対策が重要なのは否定しないが、それによって守っているものは何なのか。入居者の余命を永らえることばかりにこだわって、一番大切なはずの入居者の幸福を蔑ろにしていないか。

認知症患者が日々何を思って生きているのか私には想像することしかできないが、認知機能の著しい低下によって外界とは隔絶されてしまった肉体の中に、自我や魂みたいなものは必ず残っていると思っている。
認知機能がほとんど閉ざされた状態の肉体に閉じ込められて外界からの刺激がほぼゼロの状態。
自らの中で思考をめぐらそうとしても思考力も低下しているから思考はぐるぐる堂々巡りするばかり。認知症患者の毎日は常に悪夢にうなされているような状態だと想像する。

認知証患者は外界と交わりたいと願っているが、認知機能が低下しているので視覚や聴覚といった高次の情報単体では肉体の奥深くに閉じ込められた本人まで届かない。周りの人の笑顔、朗らかな声、衣服から香る洗剤やシャンプーの匂い、触れられた手や腕の温もりや柔らかい感触、そういった低次の知覚が組み合わさってようやくわずかに届く。
そうだとしたら、そういう愛情が込もった身体のふれあいが、暗闇に閉ざされた毎日の中に差し込む一筋の光のように、認知症患者の最後の生きがいなのではないか。

認知症の妻を介護する夫が、窓越しの面会でパネルに印刷した写真を見せながら一生懸命話しかけたり、アクリル板ごしの面会で一生懸命「大好きだよ」と伝える場面があったが、残念ながらそれが妻に伝わっているとは思えなかった。
この時、肩を抱き手を握って話しかければ、言葉は伝わらなくとも、少しは気持ちが伝わったのではないか。
閉ざされた世界に生きている認知証患者にとって、外界から伝わってくる愛情は生きがいだ。

ベッドに寝たきりのまま、車椅子にのったまま、ただボーッと時間が過ぎて寿命が尽きるのを待つ老人たちの姿を見ると、映画「マトリックス」の世界みたいだと思った。この人たちは、自分たちの意思や幸福も置き去りにされた状態で、一体、どういう目的で社会から"強制的に"生かされているのか分からない。非常に不気味な社会だ。

家族や親しい人と触れ合う生きがいをなくして、たとえ10年生きながらえたとしても、逆に長生きするほど地獄じゃないか?
日本人って、まわりの状況に強調することには長けているが、「自分はどうありたいのか」「現状に対して、どうすべきと考えるのか」自ら考える主体性に非常に欠けている。
もっと日本人のみんなが、それを考えられるようになればより良い社会になるのに。それがもどかしくてたまらない。

番組は最後、吉田さんが「生きていてくれるだけでいい」と、論点をすり替えるようにして締めくくられた。
人間、長生きすれば次第に身体は弱くなるし、認知症になってしまうこともある。それは仕方がないとしても、その運命の中で、もっと精一杯幸福に生きられるような社会のあり方がもっとあるはず。日本がこれから、より良い社会になってほしい。