週休3日サラリーマンのブログ

空気を読まないサラリーマンをやってます。1980生まれ男です。既婚。2011年生まれ息子、2013年生まれ娘あり。

セックスしろや!(「ゴジラ-1.0」映画レビュー)

#映画

2023年11月、映画「ゴジラ-1.0」を公開第1週に劇場で鑑賞した。
聞こえてきた評判がかなり好評だったので観に行ったら、平日の昼間にも関わらず劇場はかなりの観客の入りで驚いた。観客の年齢層は高めだった。ゴジラというコンテンツの高年齢層への訴求力はなかなかだ。
鑑賞中の劇場もみんな黙りこくって観ていたし、映画が終わった後も沈黙して力なく帰っていったように見えたので、「大ヒット上映中!」だとしても鑑賞した人の満足度は低そうだ。

少なくとも私はかなり期待を裏切られた。
ゴジラVFXはハリウッドにも見劣りしないくらい良かったが、ドラマ部分が「駄目な邦画」そのものだった。過剰演技のオンパレード。なぜいちいち大声で怒鳴ったり相手に掴みかかったりするのか。そんな奴いねえよ。

本作のドラマは神木隆之介演じる元・特攻隊員の敷島と、浜辺美波演じるヒロインの典子の2人が主人公。
敷島は特攻任務から逃げて戦後まで生き残ってしまった事に負い目を感じていて、なりゆきで一緒に暮らすことになった典子が敷島を励まして、敷島が「生きること」を取り戻すというストーリー。

以下ネタバレあり。

ストーリーはよく分かるし感動できそうな内容なのだが、描き方が良くない。
特に、敷島と典子が2年近くも一緒に暮らしていて、夫婦になっていない(=セックスしていない)というのが不自然だ。ふたりとも美男美女で性格も悪くないのにそういう関係にならないのは、相手をひとりの人間として全く尊重していないとしか思えない。
敷島が「本当は俺はもう死んでるんじゃないのか?なあ、おれは本当に生きているのか!?」と典子に縋りついて泣く場面があったが、それでもふたりはセックスしない。セックスだけが生きる目的というわけじゃないけど、若い男女が心も身体も一つになることって、それこそ生きることそのものじゃないのか?そういう「生」を描かず、ただ大声で説明セリフを喚き散らすばかりのこの映画は滑稽に思える。

映画「おくりびと(2008)」で、仕事で傷つき打ちひしがれた主人公の男(演:本木雅弘)が妻(演:広末涼子)に同じように縋りついて泣いてそのままめちゃくちゃセックスする場面があったのと対照的だ。

だいたい、神木隆之介浜辺美波のふたりともが、性的なイメージからは程遠いキャラの俳優だ。
そういう流行なのだろうか。
そういえば、本作品以外でも最近の日本の作品はセックスを忌避する傾向が強い。

2023年秋シーズンの覇権アニメと言われている「葬送のフリーレン」も「生きるとは何か」をテーマにしていながら、9話まで見てもセックスどころか恋愛の影もない。恋愛もなしにどうやって人生を語るんだと思う。

同じく2023年秋アニメの有力作品「薬屋のひとりごと」は中世中国のような架空の国が舞台で、主人公の女の相手役はなんと宦官!宦官のくせになぜか筋骨隆々のイケメンで、宮中の女官たちの憧れの的という設定なのだが、無性のキャラに欲情するというのは作中の女も読者もどうかしている。(そのくせ、容姿に対するこだわりは強い。容姿の意味が性的魅力よりもSNSなどの承認欲求のためのものになってきている?)

かくいう私も、アニメ「スパイ・ファミリー」のヨルさんが"客"のいるホテルに入っていく場面で、彼女の職業が売春婦でなく殺し屋だと気づいた時ホッとしたので、ある意味セックスは殺人よりも忌避すべきものという感覚が私にもあるのかもしれない。

しかし、一方で日本はAVをはじめBLや同人誌といったエロコンテンツが豊富な国でもあり、セックスを完全に忌避しているとも言えなさそうだ。
これはどういうことなのだろうか。
「日本人は、やはりどこかセックスを後ろめたいものと認識していて、それゆえセックスが自分たちの生活の中にあることを認めたがらない」たぶんこんなところだろう。
そういう歪んだ認識に立って「生きる」ことをテーマにした作品を作ると、肉感がなく極端に観念に偏った不自然なものになる。この「ゴジラー1.0」はそういう作品だ。

口直しに「アルマゲドン(1998)」でも観ようかな。